2010年10月18日月曜日

ちょっとしたギモン

この文章の中に『法科大学院に進みながら、何事も金に換算する法律家の卵たちに疑問を抱き、司法試験の受験を先延ばししている女性』ってあるけど…どうしてそんなことするんだろ??
法科大学院に進んだのは自分が法律家になりたいからでしょ?!周りの法律家がどうなろうが、自分の信念を持って活動していけばいいだけなんじゃないの?
司法試験受験しないのは、自分に自信がないからなんじゃないの?!



◆あしたへ:就職と夢、揺れる心を映画に 「卒業」で道見えた(10月18日毎日新聞)

帰宅すると、一通の封書が机の上にあった。
 <新聞社に応募してみませんか>
 08年の冬。封を開けると、母のメッセージが便せんにつづられていた。
 <思いがほかにあることは知っています。しかし記者は天職に思えるのです>
 太田信吾さん(25)は当時、早稲田大学第2文学部の4年生。映像表現を学んでいた。将来は映画監督になりたいと思っていた。置き手紙には、息子の将来を思う母の思いがにじんでいたが、自分の歩む道を指図されたようで嫌だった。
 だが、そのむずがゆい感覚がとっぴなひらめきを生んだ。「これを卒業制作の映画にしよう」。社会人への一歩を前に依存と自立のはざまで悩む自分を主人公にして。「タイトルは『卒業』だ!」。すぐに同級生の友人、飯塚諒さん(25)に協力を頼んだ。
 太田さんは家族の期待と自分の夢との距離に悩んでいた。好きなことをやるなら自活しろと父は言い、母は有名企業に入ることを望んだ。「みんな勝手だ」と思いつつも、映画監督一本でいく自信もない。渋々就職活動を始めたが、折々にカメラだけは回し続けた。
 母が勧める新聞社のOB訪問に行く朝だった。「発声練習よ」と言って母が部屋に来た。「カ、ケ、キ、ク、ケ、コ、カ、コ」。肩の力が抜けるからと大声を出す。首をかしげながらも従う。その様子も部屋に据え付けたカメラがとらえた。後で映像を見た飯塚さんは「コメディーかと思った」と笑いこけた。
 映画「卒業」は、社会に飛び出す直前の揺れる心をとらえたとして、国内の二つの映画祭で入賞した。
     *
 この春、太田さんは大学を卒業した。就職は結局うまくいかず、映像作家の道を歩み始めた。今はロックバンドのデビュー直前に夢破れた青年の再出発を撮っている。作品が一定の評価を得たとはいえ、月収は塾講師の10万円が支え。母は「結婚もできないじゃないの」とぼやく。
 5月。母校の早稲田大のそばで「2文の葬式」が営まれた。4年前に募集をやめ、最後の入学生が今年卒業した夜間の第2文学部。廃部を惜しみOBらが企画した。会場で「卒業」が上映されることになり、太田さんは飯塚さんと出かけた。
 上映後、出席したOBらが意見を交わす。型破りの人だらけだった。年収200万円のアルバイトをしながら何年も小説家を目指している男性、法科大学院に進みながら、何事も金に換算する法律家の卵たちに疑問を抱き、司法試験の受験を先延ばししている女性。作品を見て、多くは「いかにも2文らしい映画だ」と評価してくれた。担当教授は「グローバル化の中で実学志向が強まり、すぐに役立たないとみられるものは排除されていく。2文はその象徴です」と嘆いた。
 同じレールに乗らず、自分の生き方を探す。そんな先輩たちの声。未曽有の就職難の時代になんと酔狂な、と言われるかもしれない。でも、こんな時代だからこそ、別の可能性にかけてみたい。太田さんは勇気付けられる思いだった。
     *
 「葬式」の翌月、喫茶店で久しぶりに飯塚さんとおしゃべりした。彼も卒業後、企業の内定をけって南米を放浪し、映像技術を学ぼうと大学院に進んでいた。互いに夢を追っているんだと太田さんは思っていた。
 何の拍子だったか、飯塚さんが言った。「大学院卒業したら就職も考えてる。例えば銀行とか」。意外な一言に、太田さんはすかさずわけを聞いた。返ってきた答えは簡潔だった。「やっぱり安定を考えるよ」
 大学1年の講義で言葉を交わして以来の仲だ。夏休みには一緒に長野県の山村に泊まり込み、ドラマ仕立ての映画作りに取り組んだ。その体験が「卒業」にもつながった。
 友の言葉は驚きだったが、太田さんはわりと冷静に受け止めた自分にも気づいた。たとえ道は分かれても祝福しよう。彼には彼の卒業がある。太田さんはグラスの氷を鳴らし、自分は行けるところまで行ってみようと思った。【長野宏美】
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